焼き鳥は好物のひとつなので、結構色々なお店に行くのだけれど、
その店は、もしかしたら今までの中で一番おいしかった店、と言っていいかもしれない。
肉も野菜も、生でも出せるような新鮮な素材を、
ていねいにじっくり、時間をかけて焼く。
一回いっかい、網の下の土台(?)の焦げをこそげ落とす。
使い込まれたヘラのような道具で、ズリ、ズリとこそげ落とす。
きれいになったところで、新しい網を置き、
これまた使い込まれた、でもよく手入れされたハケで
油を(良質な油を)網にゆっくりと塗る。
そしてじんわりと、時間をかけて焼く。
そうして出された焼き鳥たちは、「ん?」と、一瞬会話を止めて
手元の焼き鳥を確認してしまうほど、おいしかった。
「こんなにシンプルな食べ物なのに、こんなに違うものなのか」
と思うとともに、
「シンプルだからこそ、違いが歴然とするのかも」と思い直してみたりして。
その後、
一緒に行った友人が、私の好みに合わせて焙煎してくれた珈琲豆をくれたのだけど、
それがまた、美味しかった。
私はいつも、近所の珈琲やさんに好きな豆を注文し、欲しい量だけ焙煎してもらっている。
だから比較的美味しい珈琲を飲んでいると思うのだけど、友人の豆は何かが少し違った。
そもそも、豆の膨らみがきめ細かく、美しい。
味も、透明感があるのにコクも深みもあり、薫りもいい。でも酸味とか苦みは強くなく、とてもバランスがいい。
そのことを伝えると友人は
「コクがあるのが好きって言ってたから、深煎り、でも深すぎないようにして、『美味しくなあれ、美味しくなあれ』って思いながら焙煎したからね」と言っていた。
先の焼き鳥屋さんもそうだけれど、
結局、ていねいにつくられた物というのは、
たとえそのプロセスを見ていなくても伝わるのだな、と思った。
なぜなら、そこには「大切に扱われている」「ていねいにつくられた」ものだけがもつ、独特の空気があるから。
そしてそういうものは、粗末にはできなくて、やっぱり、ていねいに接してしまう。
市場価値が高いとか、たくさんとかではなく、
ほんとうに気に入った、ていねいにつくられた物を、必要なだけ。
それを、大切に扱う。
私にとって豊かな生活とは、そういうことだ。
と、珈琲を飲みながらしみじみ思った。
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